Walter Benjamin「ドイツ悲劇の根源」1928
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Tractatus (トラクタート)
美
悟性からの恐怖 (誘惑 (欲望を唆るもの)、假象 (輝き))、エロスからの不安 (退隱、燃燒 (灰)) 完全なる統一が眞理の本質の中に尋ねて得られるものであるのなら、この問は次のやうになるほかないだらう。すなはち、眞理がもろもろの個別的な問に應じて與へる、考へうる限りのそれぞれの答へのなかに、統一を問ふこの問ひに對する答へそのものが、どの程度まですでに與へられてゐるか、といふ問ひである。
理念 (idea) と槪念
星座。配置 (Konstellation; arrangement) config
ひとつひとつ見附ける事しか出來ず、構成出來ないから
言表の稀少性
←→連續性
genre = 理念
ギリシャ悲劇 / バロック悲劇
理念は手本に於いて捉へられるが、理念は手本ではない 說明
精神、人閒性、生
說明は槪念に就いてのものである
原現象 (「『ドイツ悲劇の根源』への「補遺」」)
Georg Simmel が參照されてゐるがどの著作かわからない
根源現象
述語的統一の二種 : 根源語〈われ-なんじ〉、根源語〈かれ-それ〉
$ \begin{array}{c} 我 & 汝 \\ 彼 & 其 \end{array}.
其 (- 彼) が在った所に、我 (- 汝) は在らねばならない
「言語一般および人閒の言語について」(ベンヤミンコレクション 1)
言語は何を傳達するのか? 言語は自身に合致する精神的本質を傳達する。この精神的本質は自己を言語において (in) 傳達するのであって、言語によって (durch) ではない。このことを知ることが肝要なのだ。したがって、言語の話し手を、言語によって自己を傳達するものと考えるなら、言語の話し手というものは存在しないことになる。精神的本質は自己を言語において傳達するのであって、言語によってではない――すなわち、精神的本質は、それが傳達可能な限りにおいてのみ、言語的本質と同一なのである。
in (獨)→in (英)、durch (獨)→through (英)
人閒の言語 / 事物の言語
默せる事物の物質的共同體
名
認識 (命名) する人閒の言葉←創造 (命名) する神の言葉
人閒の言語から創造する言葉への接點 (精神的共同體) : 固有名 (運命)
人閒は神から名附けられなかった
人閒は人閒に固有名を附ける
飜譯
名無き事物の言語を名に於いて受容 (受胎。認識) する
神の言葉に依り創造された事物
事物の言語からの飜譯閒の飜譯
記號の偶然性
傳達の閒接性、外的な限定 (durch)
裁きの直接性
事物の悲しみに依る更なる沈默
バベルの塔の建設 : 創造への外的な接點
「運命と性格」
運命
自然的罪
裁き
悲劇
不幸
不幸を減じる爲には不幸を減じれば恐らく好いのだらうが、幸福を加えても不幸はいささかも減らない。不幸を加えても幸福はいささかも減じない
性格
自然的無垢
喜劇
幸福
しるし
特徵
例證
性格の實在論 / 唯名論
非因果
「暴力批判論」
目的に依る正當性 (自然法) / 手段に依る正當性 (實定法)
實定法が目的の無制約性に對しては無批判的であるとすれば、自然法は手段の被制約性に對して無批判的だからである。
結果的正義 (配分的正義) / 手續き的正義
神話的暴力$ P(x\in X)
法措定的暴力$ P(X)
戰爭、死刑、運命
司法警察活動
神話的暴力
大惡人
神話的な講和 (平和、言葉に依る合意 (契約))
言葉に依る合意の非暴力
噓 (詐欺) を罰せられない
〈市民法は醒めたる者のために書かれたり〉 (ius civile vigilantibus scriptum)
契約の自由の制限
法は、まったく非暴力的な手段の使用を、非暴力的手段が反作用的に暴力を生みだす恐れがあるとの理由で、制約しているからである。
神話の顯現
革命的 general strike (デモ)
法維持的暴力$ P(x)
徵兵
行政警察活動
交涉の爲の general strike (デモ)
〈いかなる法維持的暴力もそれが存續していくなかで、自身のうちに代理されるかたちで存している法措定的暴力を、敵對する對抗暴力を抑壓 (Verdrängung)することを通して閒接的にみずからを衰弱させてしまう〉 神的暴力$ \cancel J
戒律、運命
しつけ
恩寵
一揆。革命
「飜譯者の使命」(ベンヤミンコレクション 2)
この死後の生が世に現れた姿こそ名聲にほかならない。媒介以上のものである飜譯は、死後の生のなかで作品がその名聲の時代に到達したときに成立する。したがって飜譯は、惡しき飜譯者がつねづね自分の仕事に對して要求するのとは違って作品の名聲に寄與するのではなく、飜譯のほうが作品の名聲にみずからの存立を負うているのだ。
というのも、創作の志向は決して言語そのもの、言語の全體性に向かふのではなく、もっぱら直接的に、言語に關はる特定の內實 (ゲハルト) へと向かふからだ。しかし飜譯は、創作とは違っていはば言語そのものの奥深い森のなかにあるのではない。飜譯はこの森の外部にあって、この森に對峙し、そしてこの森に足を踏み入れることなしに、そのつど飜譯の言語自身の中の谺が他言語で書かれた作品の反響を響かせうる唯一無二の場所に立って、原作を呼びこむのだ。飜譯の志向は、創作の志向とは何か別のものを、つまり、他言語で書かれた個々の藝術作品から出發してひとつの言語全體を目指すばかりでなく、それ自身別の志向でもある。すなわち、詩人の志向は、素朴な、始源的な、直感的な志向であり、飜譯者の志向は、派生的な、究極的な、理念的な志向なのである。なぜなら、多數の言語をあの一つの眞なる言語へ統合するという壮大なモティーフが、彼の仕事を滿たしているのだから。
純粹言語とは、みずからもはや何も志向せず、何も表現することなく、表現をもたない創造的な語として、あらゆる言語のもとに志向されるものなのだが、この純粹言語においてついに、あらゆる傳達、あらゆる意味、あらゆる志向は、それらがことごとく消滅すべく定められたひとつの層に到達する。
原作の言語の持つ價値が少なければ少ないほど、原作が傳達を事とするものであればあるほど、飜譯にとって資するところはますます少なくなり、ついにはあの意味の完全なる優位が、あくまで形式からなる飜譯の梃子となるどころか、飜譯を無に歸してしまふ。作品は高度なものであればあるほどそれだけいっそう、その意味にほんの束の閒觸れるだけでも飜譯可能なのである。言うまでもなくこれは原作についてのみ妥當する。それに對して、飜譯は、自身に附着している意味の重さゆえにではなく、その附着の仕方があまりにも束の閒のものであるがゆえに、飜譯不可能なのだと分かる。
死後の生 (Fortleben。存える生 (Überleben))